
良かれと思ってかけた言葉が、実は境界線をまたいでいたのかもしれません。
毎朝の「確認」は、心配からだった
いつも朝、子どもを送り出すとき。
玄関で、こんな声かけを毎日のようにしていました。
「ふでばこ持った?」
「ハンカチ、ティッシュは?」
「鍵、大丈夫?」
子どもはいつも
「大丈夫だよ」
「ありがとう」
そんなふうに返してくれていました。
だから私は、それが“いつものやりとり”だと思っていたし、
特に問題があるなんて考えたこともありませんでした。
忘れ物をして、困らないように。
ただ、それだけの気持ちだったのです。
「そんなに信用ないかな?」と言われた日
ある朝、同じように声をかけたとき、
子どもがぽつりと言いました。
「そんなに信用ないかな」
一瞬、意味がわかりませんでした。
「え?何が?」
心配だから言っているだけで、
信用していないつもりなんて、まったくなかったからです。
その日は、それ以上話が広がることはありませんでした。
でも、その言葉が、心のどこかに残っていました。
大きな声と、閉まったドア
別の日の朝。
いつものように、つい口から出た言葉。
「鍵、大丈夫?」
すると、子どもは
「大丈夫!!」と強い口調で返し、
ドアをバタンと閉めて出ていきました。
「え?」

この瞬間、もうなにがなんだか……とても戸惑いました。でも…
驚いたのと同時に、
ふと、あの言葉が頭に浮かびました。
——「そんなに信用ないかな」
私の声かけは、どう伝わっていたんだろう
もしかしたら。
毎日、毎日、
私が確認するたびに、
子どもはこう受け取っていたのかもしれない。
「自分は、信用されていない」
「どうせ忘れると思われている」
私は心配から言っていただけ。
でも、子どもには“マイナスの言葉”として積み重なっていたのかもしれません。
「忘れている前提」で話していたことに気づいた
あらためて、今までの声かけを振り返ってみました。
「ふでばこ持った?」
「ハンカチ、ティッシュは?」
「鍵、大丈夫?」
どれも、
“忘れているかもしれない”前提の言葉でした。
それは確かに、
「信用していない」と感じさせても不思議ではありません。
信用するって、どういうことだろう
じゃあ、「信用する」って何だろう。
そう考えたとき、
ひとつの答えが浮かびました。
忘れ物をしていない前提なら、
そもそも確認する必要はない。
そして、もし忘れ物をしても、
それをどうするか、どう乗り越えるかは
子ども自身が考えていい。
——忘れ物をしても、大丈夫。
——自分で何とかできる。
それを信じることなのかもしれない、と。
毎朝の声かけを、やめてみた
思い切って、
毎朝していた確認の声かけをやめてみました。
その代わりに、
子どもが自分で準備している姿を見かけたときに、
こんな声をかけるようにしました。
「持ち物、ちゃんと確認してるんだね」
「さすがじゃん」
すると、不思議なことが起きました。
もめない朝と、「いってきます」の声
朝の玄関で、言い争いになることがなくなりました。
ドアの向こうから聞こえるのは、
「いってきます!」という元気な声。
もちろん、今でも忘れ物はします(苦笑)
でも、子どもは自分で考え、
自分なりに乗り越えて帰ってきます。
忘れ物も、成長の一部だった
そうか。
忘れ物をするのも、
それをどうするか考えるのも、
子ども自身の経験なんだ。
私は、
「心配」という気持ちを理由に、
子どもの領域に入り込みすぎていたのかもしれません。
親の心配と、子どものバウンダリー
子どもには、子どもの領域がある。
親には、親の役割がある。
その境界線(バウンダリー)を、
私は少し越えてしまっていたのだと思います。
とはいえ、
今でもつい「ハンカチ持った?」と言ってしまうこともあります。
どうしても口から出そうになる日もあります(苦笑)
でも、そのたびに思い出します。
「信じるって、見守ることなんだな」と。
あとになって知ったのですが、
こうした関わり方は、心理学でいう
『バウンダリー(境界線)』という考え方でした。
境界線(バウンダリー)を意識することは、
冷たく突き放すことではなく、
相手をひとりの人間として、心から信頼すること。
今日も私は、
玄関でぐっと言葉を飲み込みながら、
小さくなっていく背中を見送っています。
▼この出来事は、「助ける」と「信じて任せる」の境界線に気づくきっかけでした。
子どもが自分も相手も大切にするための「心のしきり(バウンダリー)」。 言葉の意味や、日常で親ができる具体的な見守り方を、ステップごとにこちらの記事でまとめています。


